21歳のわたしと15歳の彼女について

8月が終わる頃、友人に「ブログを書いて欲しい」と言われ、昔書いていた自分のブログのことを思い出して懐かしいブログタイトルを検索欄に打ち込んだ。

検索結果の6つ目。Enterボタンを叩いて数秒も経たないうちに見つかったことに、なんとなく胸がざわめいてしまう。

 

ブログタイトルをクリックすると画面一面が薄いペールピンクに染まった。そこに、ぽつぽつと柔らかなグレーの文字が浮かんでいる。

一番新しい記事は2013年12月21日のもので、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだ話についてだった。

「今まで村上春樹の作品を読んだことはなかったけど、すごくチョコレートの匂いがしたから手に取った」というようなことを書いていて、「分かる」とちょっと笑った。

実はわたしも15の時同じ理由で同じ本を手に取ったことがある。やっぱりそういう人は他にもいるんだな、と思ったところで我に返った。そういえばこの文章はわたしが書いたもので、同じなのは当たり前のことだった。

 

……何だかものすごい違和感がおなかの底をぐるぐるし始める。

 

今存在しているかつて15歳だった「21歳のわたし」と、あのブログを書いた「15歳のわたし」が頭の中で上手く結びつかない。

他の記事を読んでみても「懐かしいな」という気持ちには一切なれず、「その感想分かる」とか、「わたしもそういう体験したことある」とかばかりで、自分が書いたはずの文章を自分の体験として咀嚼できないのだ。

同じ時間軸の中で21歳のわたしと15歳のわたしがそれぞれまったくべつの生き物として独立して生きているような、そんな感覚。ブログを書いている「15歳のわたし」はわたしというよりは彼女、という方が正しい。

 

ネットの海に放した言葉たちは本人すら忘れてしまうくらいに持ち主が曖昧になって、誰のものでもなくなる。そうして誰のものでもなくなった言葉たちが、いつかの持ち主のところに届いて、その言葉の端々から再構築された「架空の誰か」の言葉になる。

 

今日書き始めたこのブログもいずれそうなるんだろうな、と思う。

 

何年先か、はたまた何十年先になるかは分からないけれど、いつかふいにここの存在を思い出した時にわたしはまた自分の記憶の中の「21歳のわたし」とはべつの「21歳の彼女」に出会って「分かる分かる~」と共感をするんだろう。

 

 

かつてのブログのコメント欄に、わたしも15歳の時に同じ体験をしたことがあります、これからも更新楽しみにしています、と書き込んでそっとブラウザを閉じた。

次に思い出して検索をかけた時は新しい記事が増えているといい。